ウズベキスタンの民族と歴史

一時は大帝国を築くも、その歴史は様々な国から侵略を受けてきた。

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シルクロードの中継地として栄えて来たウズベキスタン。
一時は大帝国を築くも、その歴史は様々な国から侵略を受け、休まることはありませんでした。
今なお多くの方が憧れ続ける国、ウズベキスタン。
過去の歴史を紐解かなければ、この国を理解することは難しいでしょう。

ウズベキスタンの歴史

紀元前 : オアシス都市にアーリア系(ソグド人などイラン系)が定住。
宗教はゾロアスター教、マニ教など。

7世紀以降:トルコ化が進む。またアラブの軍の中央アジア侵入により、イスラーム化が始まった。
9-10世紀:西トルキスタンにイラン・イスラム王朝(サーマン朝)誕生。
10-11世紀:東トルキスタンにトルコ・イスラム王朝(カラハーン朝)誕生。
13世紀:チンギス・ハーンの征西により、ブハラ、サマルカンドが壊滅。
第2子チャガタイ・ハーンがチャガタイ・ハーン国建国。
14世紀:チャガタイ・ハーンを祖とするティムールが、現在のウズベキスタンを支配。首都はサマルカンド。
14-16世紀:ウズベク族(キプチャク・ハーン=モンゴル人家内の草原にいた遊牧民全体をウズベク族と呼び始めたのが始まり)が、カザフから南下。
1500年:ウズベク族のシャイバニ朝がサマルカンド征服。
1507年:ウズベク族のシャイバニ朝がティムール帝国を滅ぼす。
(ブハラ・ハーン国、ヒヴァ・ハーン国、コーカンド・ハーン国など形成)
1865年:ロシア帝国がタシケントを占領。トルキスタン省が設置される。
1867年:ロシア帝国がトルキスタン省を設立しタシケントに総督府を設置。
1916年:ムスリム勢力が植民地統治に対して抵抗運動開始。(1916年隆起)
1918年:ロシア帝国とムスリム自治運動との戦争。(1924年まで)
ロシアが勝利し、ムスリムの一族はアフガニスタンへ。
1924年:ロシア帝国「民族的境界画定」を中央アジアで実施。
ウズベク・ソビエト社会主義共和国が誕生し、ソ連邦に組み込まれた。
1990年3月:カリモフ大統領がウズベク・ソビエト社会主義共和国の大統領に就任。
6月:共和国主権宣言
1991年9月1日:共和国独立宣言 国名を「ウズベキスタン共和国」に変更
1991年12月:直接選挙でカリモフ大統領誕生
1995年4月:国民投票で大統領の任期を2000年まで延長
2000年1月:カリモフ大統領再選
2002年1月:国民投票で大統領任期を5年から7年に延長
2007年12月:カリモフ大統領再選
2016年12月:ミルジョエル大統領誕生

民族

ウズベク人は、中央アジア南部地域で最も人口の多い民族で、テュルク(トルコ)語系のウズベク語を話し、宗教はおおむねイスラーム教スンニ派である。

その多くは、ウズベクという民族名を国名としたウズベキスタンに住んでいるが、アフガニスタンに222万人、タジキスタンに168万人、キルギスに39万人、トゥルメニスタンに43万人、中国新彊ウイグル自治区にも少数いる。

「ウズベク(独立独歩という意味)」という民族の名前は14世紀前半の現在のカザフスタン南部の君主ウズベク・ハンに由来すると言われている。その後、ムハンマド・シャイバーニー・ハン率いる遊牧軍団が15世紀末、現在のウズベキスタン領域に侵出し、16世紀初め、ティムール朝を滅ぼしたことを契機に「ウズベク」という名称が中央アジアにもたらされることになった。 しかし、現在のウズベキスタンにおいて、一般の人々には、ウズベク人のルーツはアムダリヤ川とシルダリヤ川の間のオアシス地域に古代から定住し、灌漑農業を営んできた人々だと思われている。

ウズベキスタンには、ロシア人人口が約100万人と多い。しかし、純粋なロシア人は少なくウクライナ人、ベラルーシ人、ドイツ人、ユダヤ人、タタール人、朝鮮人など様々な民族との混血が多い。中央アジアには、旧ソ連の朝鮮人の約7割が住んでいる。その大半がスターリン体制下の1937年に共産党によって強制移住させたれた人々で、その人数1,721万人であった。現在、ウズベキスタンには約17万人が住んでいる。中央アジアの朝鮮人はロシア語を母語とし、名前もロシア人の名前が一般的である。

現在の国境は、ソ連によって決定されたもので、かつてイスラーム教徒として、あるいは住む都市や出身部族に基づいたアイデンティティーを持ち、ペルシャ系のタジク人とも混在し、きわめて多様であったテュルク系定住民族は、ソ連体制のもとで「ウズベク」という名称のもとに統合された。ソ連の民族政策と1920年半ばに行われた中央アジア民族別国境画定により、共和国が成立した。当時、タジク人が多数だったサマルカンドやブハラが、ウズベク人の国ウズベキスタンに統合されたのも民族国境を政治的に拡張した結果である。

このようにウズベキスタンは様々な民族で構成され、言葉も文字も、生活習慣も様々な人々が共存し、独自の文化が発展する国である。

アミール・ティムール・グラガン(1336~1405年)

一代、わずか30年でインダス川から黒海に至る地域に大帝国を築いた征服者。昨今、ウズベキスタンの学校で教えられている歴史ではティムールはウズベキスタン人でウズベキスタンの第一の英雄である。

確かにサマルカンドの南90kmの旧名ケシュ(現在のシャフリサーブス)郊外で生まれたのは歴史上の事実。しかし、グラガン(チンギス・ハーンの子孫を表すタイトル)の名前からも分かるように本人はモンゴル系を名乗っていた。彼は、モンゴル時代から知られるバルラス部族の出身である。

ティムールの祖先は、チンギス・ハーンの次男チャガタイと共にモンゴル高原から中央アジアに移り住んだ。しかし、チャガタイの子孫が支配する遊牧国家において、彼の祖先の勢力と政治的影響は次第に低下していった。当時の中央アジアでは、チンギス・ハーンの子孫だけが、統治者になれるという考え方が力を持っていた。ティムールは、その子孫ではなかったため、チンギス・ハーンの子孫の女性と結婚して姻戚関係を結んだ。

こうして、ティムールは、チンギス・ハーン家の権威を利用して支配者への道へ歩んでいった。

現在、ティムールはウズベキスタンの国民総合のシンボルとなり、タシケント、サマルカンド、シャフリサーブスに像が建てられている。